
鬼の始祖・鬼舞辻無惨と炭治郎たちの戦いは最終局面へ…!
珠世が身を挺して投与した四種類の薬が、無惨を衰えさせ、追い詰めていく。
炭治郎と禰豆子、そして鬼殺隊の運命は!
永きにわたる鬼との闘争、ついに決着の刻!
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鬼の始祖・鬼舞辻無惨と炭治郎たちの戦いは最終局面へ…!
珠世が身を挺して投与した四種類の薬が、無惨を衰えさせ、追い詰めていく。
炭治郎と禰豆子、そして鬼殺隊の運命は!
永きにわたる鬼との闘争、ついに決着の刻!
コメント
鬼滅の刃 23 (ジャンプコミックス)
ちなみに映画は見ていない。
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なるほど。
しかし、これは家族の絆や、命の大切さや、仲間や人類への自己犠牲精神や利他の心の美しさと尊さをうたったものなのだろうか。
そういったヒューマニズムへの礼賛が、これだけの熱を生み出し、興味と言説とお金の流れを生み出したのだろうか。
そうなのかもしれない。
なぜなら、たくさんの人がそう言っているからだ。
しかし、その解釈には若干の引っ掛かり ― 違和感が伴う。
そこにはある種の「反テクノロジー主義」との親和性を見て取れるからだ。
ここからは、その違和感について考察を進めてみたいと思う。
まず人間の命を何よりの価値と置いているのとは逆説的に、あまりにも命を軽く扱いすぎている。
鬼殺隊という雑魚キャラたちは、あまりにも無為にその命を落としていく。
そして、なおそれをよしとされる。
また何より、炭治郎たちは永遠の命を拒否して、死すべき運命を選択する。
ときに若死にの証しをまとうことになることも厭わない。
つまり、命よりも大事なものがここにはあると言っているのだ。
そして、同時に世間では命は大切だとうたうのだ。
無限列車で一般人は誰も死ななかったといって喜ぶ。
煉獄さんは死んでいるのに。
ここで、まず「鬼」という存在をどう考えるべきなのだろうかを問いたい。
著者がどう考えているのかとは関係なく、社会への受容と反応において、「鬼」は将来の来るべきある事象の象徴としてみることが可能だ。
それは、人間の能力を「エンハンス」し、人間の限界と思われている寿命を克服した存在である。
その姿は、ユヴァル・ノア・ハラリの『ホモ・デウス』でも描かれたように、多くのテクノロジーがターゲットとし始めている「死」と「老化」が克服されたものの姿である。
レイ・カーツワイルが『シンギュラリティは近い』で論じたように、テクノロジーが複数の領域で指数関数的に発展したとき、今現在では不可能な多くのことが可能となるのである。
例えば、鬼舞辻無惨の身体には複数の心臓があるが、将来人工心臓が当たり前になったとき、そのクリティカルポイントである心臓機能の耐障害性観点から冗長構成を考えた場合には合理的な生体デザインなのかもしれない(明らかに七つは多すぎるが)。
また、無惨が分け与えている「血」は、将来の人間をエンハンスするためのテクノロジーに擬することができるかもしれない。
このように「鬼」を将来のエンハンスされた人間の象徴と捉えた場合、彼らがわれわれとは異なる存在、対立する存在として描かれ、一方で「自然」な人間が鍛錬して技を極める(それ自体は人間離れしているのだが)ことの素晴らしさ、崇高さが強調されていること、そして熱狂的にその描写が受け入れられていることは何かを示唆していると考えるべきではないだろうか。
明らかにそこには共存の論理ではなく、排除の論理が最初から働いている。
無惨や鬼が人間を拒絶する以前に、人間の方から鬼を積極的に拒絶しているのである。
そうした「鬼」に対して、人間が持つ倫理感を絶対の価値として強要するのは、人間の側の傲慢ではないのか。
最後に炭治郎が鬼にならずに、人間に戻ったことで、皆がああよかったとなるが、果たしてそうなのか。
永遠の命と健康を手に入れ、さらに朝日の制約(例えば充電や給油の象徴かもしれない)からも解放される可能性があったとき、それを追究しなくてもよかったのかという疑問がある。
もちろん、鬼が人間を殺して食べるがゆえに、鬼は人間社会から排除されなくてはならない、という論理が物語の前提となっているのは理解できる。
しかし、その場合に向かうべき方向は、鬼を排除することではなく、鬼が人間を食べなくても済むようにすることではないのか。
人工人肉を開発することは可能であろうし、また禰豆子が人を食べなくても大丈夫な体になったことは、その課題に対する医学的可能性を開くものであったはずだ(朝日に耐えられるようになったことよりもよほど悦ばしい)。
無惨は、旧人類との間における軋轢が、鬼が人を食べるからであるという仮定に基づき、人を食べなくても生きることができるようにすることをまず追究すべきではなかったのか。
そうなったときに、次に問題となるのが、「鬼」になることができるのが、選ばれた人間だけであるかもしれないという事実だ。
安全な「鬼」化促進薬を手に入れることができるのは、おそらくは当初は格差社会における上流階級のみであり、またその格差は鬼化により固定化してさらに開いていく可能性があるのである。
現在、教育格差によって経済格差が世代を通じて固定化されているように。
「鬼」が人を食べるという作品内の行為は、経済格差により弱い立場のものが食い物にされるということを象徴的に示すものになるのかもしれない。
また、「鬼」の排除が作品内でもまたそれを受容する社会でも当然のごとく疑いなく受け入れたことは、人間のエンハンスメントが社会に受容されるかどうかを先行的に指し示しているのではないだろうか。
スウェーデンの哲学者でトランスヒューマニストのアンダース・サンドバーグは次のように述べている。
「個人に権利があるからといって、他者に対する義務や、互いに必要とし合う関係を免除されるわけではない。
しかし、そうした義務や必要性によって基本的見地が蹂躙されることは、倫理的にはあってはならない。
社会の状況がどうであれ、誰かの生存権や形態的自由が退けられることは決して受け入れられない。
形態的自由――あるいは他のいかなる自由――が社会の中で権利として機能するためには、私たちに大いなる寛容さが必要だ」
また、次のようにも述べている。
「固有の人間性という性質があるとする概念を認めるとしても、この性質には重要な側面として、自己規定と、変わろうとする意思の両方が含まれるように思える。
これらの性質のない人間性というものがあれば、過去に登場したいかなる人間の文化とも合わないだろう。
自己に、あるいは他者に、この性質があることを否定することこそ、人間性に反するように思われる」
『鬼滅の刃』においては、大事にされる「人間の本質」というものを暗黙のうちに仮定し、それをもとに「反・鬼」を正当化している。
しかし、それは明示的には示されない。
それは誰もが共有している価値であり、それに疑問を呈することは許されないからだ。
将来、それもそれほど遠くない将来、遺伝子技術や人工臓器などの医療技術の発展により、いわゆるエンハンスメントが技術的に可能になる時代が来るだろう。
永遠の命を手に入れて、限界を超える能力を手に入れた人類は、「鬼」となるのだろうか。
そのとき「鬼」は退治されなくてはならないのだろうか。
「完璧な究極の生物」になれるとの無惨の言葉が頭に残ることはないのだろうか。
命の大切さをうたっているように見えながら、その実、大いに命を軽んじている、作品の登場人物、作者、作品の受容者は、せっかくそこに提示されかけていた大事なことを考える機会を軽率にも手放してやいないだろうか。
炭治郎は、人間に戻りああよかったとなる。
果たして、それはそれほど単純なハッピーエンドなのだろうか。
何となれば、最終話では、炭治郎はすでに死に、この世からいなくなっていることが示されているのである。
なんちゃって。
ありがとうございました!
本当にありがとうございました!
鬼滅の刃 23 (ジャンプコミックス)
すごくスピーディで熱い展開。
ダラダラと先伸ばしせずさくっと終わったのも良かったな。
犠牲者も多く出て悲しい事もたくさんあったけど、最後は勝利をおさめて笑えたのが良かった。
鬼滅の刃 23 (ジャンプコミックス)
鬼滅の刃 23 (ジャンプコミックス)
煉獄杏寿郎が死ぬのが早すぎ。